マクギネス真美がお届けしている連載「グローバル日本人」シリーズ。第1回では「グローバル日本人」とはどういう人たちかについて、そして第2回では、グローバル日本人にとって、今、さまざまな活躍のチャンスがあることを見てきました。
連載3回目の今回は、表にはなかなか出てこない、グローバル日本人たちの内面についてお話ししたいと思います。
さて、SNS上では「キラキラした海外生活」ともてはやされたり、「帰国子女」は特別な存在と思われたりと、日本では、「海外」「グローバル」といった形容のつく人々に対してどこか特別扱いするという傾向がいまだにあります。
でも、実際のグローバル日本人たちは、いつも華やかな光に囲まれて生活しているのではありません。もちろん、とてつもない喜びや楽しみもあるに違いありませんが、むしろ、ひとりひとりのグローバル日本人の背後には、経験した人にしかわからない苦しみや葛藤、痛みがあります。
こうした悩みや葛藤、挫折は、私自身、23年間イギリスに暮らす中で数えきれないほど経験してきました。また、これまでコーチングでご一緒してきたグローバルに活動する方々のご相談内容からも、そのことを実感しています。
ところで、日本で「グローバル人材」という言葉が使われる時には、必ずといっていいほど「語学力」が言及されます。その際、特に英語の力が必須とされることがほとんどです。
ただ、グローバル日本人たちは知っています。たとえTOEICで高得点を取っていても、海外の人たちのことを理解するのは簡単ではないことを。あるいはAIの助けを借りながらメールでのやり取りは不自由なくできても、会話で100%自分の思いを伝えることは、また別の話だということを。
あなたがグローバル日本人であれば、実際の経験を通じて、これらのことを骨身に染みて感じているのではないでしょうか。
特に私のように、英語力がほとんどないままにネイティブの環境に入り込んだ人なら、英語でのコミュニケーションにおいて間違いを犯したり、恥をかいたことは一度や二度ではないはずです。
たとえば、私が雑誌の取材で、あるイギリス人女性にインタビューしていた時のこと。「それはとても興味深い」と、相手に相槌を打ったつもりが、「マミ、あなたはもちろんとても素晴らしい人だけど、そういう時は”I’m interesting(私は興味深い人物だ)”ではなく“I’m interested(私はそのことに興味がある)”と表現するのよ」と丁寧に指摘された時の、私の恥ずかしさが想像できるでしょうか。まがりなりにもプロのジャーナリストとして取材をしているのに、英語力がないばかりに、まるで幼稚園児と話しているような印象を与えてしまったと感じた時の悔しさ。
これは一例にすぎませんが、私が、自分の考えを表現する手段であるはずの言語力(英語力)が5歳以下のものでしかない状態の頃、「私の言語力は自分の知性にまったく追いついていない」と、何度悔し涙を流し、落ち込んだことでしょう。
知っている単語やフレーズを総動員しても、自分の思っていることの10%も伝えられない体験は、だからこそもっとコミュニケーションを取れるようになりたい(英語力を伸ばしたい)、というモチベーションにはなりますが、その道のりは決して楽ではありません。
時には同じように英語が母語ではない人たちとその苦労を話すことはできても、自分とまったく同じ苦しみを抱える人はいない。そのことがさらに孤独を募らせることもありました。
「空気を読む」が通じない場所でのコミュニケーション
さて、日本社会では、相手の意図や場の空気を読むことを重視される機会が少なくありません。職場でのコミュニケーションでも「忖度すること」が必要だと感じる場面もあります。
だからこそ、自分の正直な気持ちや、好き嫌いを人前でダイレクトに表現することに社会的プレッシャーを感じている人もいるでしょう。
一方、私が海外で出会った環境では、自分の考えや好みを言葉にして伝えることを求められる場面が、日本にいた頃よりずっと多くあります。
以前、私のポッドキャスト番組にゲストとして登場してくださったアメリカ在住のウィーバー佳奈さんが語ってくださった経験では、アメリカの友人のなかには、プレゼントをあげても「自分はこれはいらない」「これは自分の好みではないから」といって受け取らない人がいるそうです。
佳奈さんは人々のこういう態度に最初は驚き、とまどったようですが、それは決して悪気があるわけでも、プレゼントを受け取らないからといって、あげた人を嫌っているわけでもないことに気付いたといいます。彼らはただ、自分の気持ちを正直に表現しているだけなのだと。
こうした率直なコミュニケーションは、佳奈さんがそうだったように、日本的なやりとりに慣れている人ほど、最初はかなり戸惑うのではないでしょうか。
さらにその後、何度かそういう経験を重ねていくと、「自分も本当の気持ちを表現していいのだ」と気づくようになります。
ところがそうすると、次は別の問題に直面することになります。
自分が本当はどうしたいかがわからない
それは、「本当は自分は何が好きなのか」「本当は自分はどうしたいのか」がわからないという問題です。
私がその重大な課題に気づいたのは、イギリスでの日々の暮らしの中でした。
イギリスでは多くの人は自分の好きなことを知っていて、それを優先し、人前でもはっきりと主張します。
たとえば紅茶の飲み方ひとつをとっても、ミルクたっぷり、砂糖2杯、ブラックなど、十人いれば十通り。誰かの家でも、自分の好きな飲み方をリクエストするのは当たり前です。
一方、私は日本で「飲み物は何がいい?」と聞かれると、「何でも大丈夫です」とか、「私も同じで」と、いつも人に合わせていました。「面倒をかけてはいけない」と思っていたからです。
ところがイギリスでは、ことあるごとに「マミはどうする?」「何が好き?」と聞かれます。そこで気づいたのは、私は自分の好みをすぐに答えられないということ。人に合わせるのに慣れすぎて、自分が何を好きなのか、どうしたいかがわからなくなっていたのです。
紅茶の飲み方はささいなことです。でも、その小さな問いの積み重ねが、私に、これまで「本当は自分はどうしたいのか」にほとんど向き合ってこなかったのだと気づかせてくれました。
私は他人に迷惑をかけないことを優先し、人の価値観や期待に合わせる「他人軸」で生きることに慣れていました。日本を離れたことで、初めてそのことに気づいたのです。
「自分軸で生きる」とは、聞き心地のいいフレーズではありますし、言葉にするのは簡単です。でも、長年、人の期待や好みに合わせることを優先してきた人にとって、それを実際に生きることは簡単ではありません。なぜならそのためには、「自分」の内面に問いかけ、「私は本当はどうしたいのか」を一つずつ探っていく必要があるからです。
そしてそれはある意味、アイデンティティが大きく揺らぐ体験といえるかもしれないのです。
そして
「今までの自分はいったい何だったのか」
「自分とはいったい何者なのか」
「これからどこで何をして生きていきたいのか」
そんな問いを何度も自分に問いかける日々が続く場合すらあります。
そして、徐々に自分の軸が見えてくるほど、今度は「自分は日本社会にはもう完全にはフィットしない」と気づくことがあります。
日本では「外国人」すぎて、海外では「日本人」すぎる
なぜなら私たちグローバル日本人は、日本社会において「空気を読む」ことが大切だと知った上で、時には「読むことを選ばない」という選択をする人たちだからです。
そして、自分の気持ちを率直に伝えることに慣れてくると、言葉にされない意図や気持ちを汲み取ることを求められる日本社会のコミュニケーション方法が、以前ほどしっくりこなくなることがあります。
だからと言って、海外が完全に自分の居場所と感じられるわけでもありません。日本以外の土地に長く暮らしていたとしても、価値観や習慣の違いに戸惑い、「自分はやはりここの人ではない」と感じる瞬間は何度もあります。
そんな時、
「私は日本では少し外国人すぎる。でも海外では日本人すぎる。」
そんな、どこにも完全には属していないような感覚に襲われることがあるかもしれません。
以前、日本語、英語、中国語、広東語、インドネシア語を操るマルチリンガルな俳優ディーン・フジオカさんが、日経ウーマンのインタビューで語っていました。
「どこでも暮らしていける自信はあった。でもそれは逆に言えば、どこに行っても『よそ者』ということですよね。どこかの国に自分の住まいがあったとしても、外国人としてその国に住んでいるような感覚が、いつも離れない。」
このように、たとえ現地の言葉を流暢に話せたとしても、その国で仕事をしていたとしても、完全にその国の人になりきることはできないというのは、多くのグローバル日本人たちが実感していることなのではないでしょうか。
知らぬ間に「日本代表」になるプレッシャー
さらには、グローバル日本人は、日本人でありながら日本について尋ねられたときに何も知らないという現実をつきつけられ、そんな自分に対する恥ずかしさを感じることもあります。
というのも、海外に出ると、自分が望んだわけでもないのに、「日本代表」のような立場になることがあるからです。
日本の歴史、政治、文化、食べ物、習慣について尋ねられ、自分の国なのに答えられないことが続く。そして、「自分は世界のことを知らなかったばかりか、日本のことすら何も知らなかった」と愕然とするのです。
実は私が夫の両親と出会ってまもない頃、義父から日本の皇室制度について尋ねられました。そして「今の天皇はなんという人?」と聞かれた時、言葉につまってしまいました。私は昭和生まれで、昭和天皇の名前が裕仁であることは、もちろん知っていました。ただ、それまで皇室にほとんど関心を持っていなかったため、義父に質問されたとき、とっさに平成時代の天皇、つまり現上皇の明仁という名前が出てこなかったのです。
イギリス王室に全く興味のない義父は「マミも日本のロイヤルファミリーに興味がないなんて最高だ!」と大笑いしてくれましたが、私にとっては穴があったら入りたいほどの恥ずかしさでした。
この一例だけにとどまらず、海外の人々からは、私が日本人だとわかると、伝統、習慣、アニメ、音楽、俳句など、日本について、ありとあらゆる質問をされました。
こうした経験を重ねるうちに、海外の人々からは、日本人なら自国の制度や伝統を知っていて当然という前提で質問されることが意外に多いのだと気づきました。
もちろん、私たちも海外の人に対して同じような態度をとっているのですから当然といえば当然のことですが、グローバル日本人のあなたなら、日本の文化や伝統、習慣を理解する必要があると、焦りにも似た気持ちを抱いた経験がきっとあるはずです。
どこにも溶け込めない自分から、地球に属する感覚へ
境界を越え、異文化のあいだで生きるグローバル日本人は、時に所属感を失い、孤独に圧倒され、自分を失いそうになるときもあります。
これは私自身がイギリスで20年以上向き合ってきたことであり、コーチングの場でグローバルに生きるクライアントの方々から繰り返し聞いてきた葛藤でもあります。
私自身がそんな「自分はどこにも属していない」という感覚から抜け出すきっかけになったのは、ロンドンのある高級日本食レストランでアルバイトをしていた時でした。
そこで働いていたのはソマリア人、マレーシア人、フランス人、ポーランド人、ペルー人、スペイン人など実に多国籍な人々。
そのなかには内戦中の母国にいる母親のために毎月仕送りをしている人もいれば、シェフの仕事をしながら1年ごとに世界を転々と移動している人、自国には第2夫人がいるという人もいました。
職場で、私たちは誰にとっても第二言語である英語でジョークを言い、厳しく怒鳴りつける上司への文句を言い合い、一緒にまかないをつくり、それを食べました。
それまで「カタコト英語で意思の疎通がままならないから」と家に引きこもって鬱気味だった私が、このままではダメだと勇気を振り絞って始めたこのバイト先で知ったこと。
それは、生まれた国も歩んできた人生も全く違うのに、同じご飯を食べ、同じジョークで笑い、母国にいる家族を思う私たちは、根っこのところでは皆、同じ「人間」なのだというシンプルな事実でした。
孤独感を何度も味わい、日本にもイギリスにも居場所がないように思っていた私は、彼らと過ごすうちに、人種や生まれ育った場所、年齢や性別が違っても、人間は嬉しいときには喜び、楽しい時には笑い、悲しいときには泣き、困った人や悲しんでいる人には優しくする、ということを何度も何度も目撃し、体験しました。
そして、「どこに行ってもきっと生きていける。なぜなら人間は根っこのところでは同じだから」と思えるようになりました。
そうした経験を重ねるうちに、自分がどこにも「溶け込めている(fit in)」ように感じられなくても、実は自分はもっと大きな世界に属しているのではないかと思うようになりました。
それはつまり、私たちはどこに暮らそうとも、地球人というグループに「属している(Belong)」という感覚です。
その感覚は、本で読んだものでも、動画で見たものでも、AIが提示してくれたものでもありません。それは、生きている人間として、私自身の身体を通して得たものです。
そして、ひとりひとりのグローバル日本人たちも、それぞれ唯一無二の実体験を通じて、自分なりの「居場所」や「所属」の感覚を見つけているのではないかと思うのです。
【コーチング・クエスチョン】
⚫︎あなたが「自分はここには完全には属していない」と感じたのはどんな時ですか?
⚫︎逆に「私はここにいていい」「私は私でいていい」と感じたのはどんな時ですか?
⚫︎あなたが「自分はここに属している」と感じるのは、どこにいる時、誰といる時ですか?
*この記事は「グローバル日本人」シリーズの第3回です
1.グローバル日本人とは? ー 日本と世界のあわいを生きる人たち
2.なぜ今、グローバル日本人にチャンスが広がっているのか
3.日本では「外国人」すぎて、海外では「日本人」すぎる — グローバル日本人の孤独とは
