2006年11月11日のブログにてお知らせした
イギリスの詩専門誌『magma』34号に掲載された
俵万智さんの短歌の翻訳が
イギリス・Poetry Libraryのウエブサイト上で
オーディオにて聞けるようになりました。
朗読をしているのは
翻訳をしたQuentin S Crisp氏。
翻訳された俵さんの短歌作品は
『サラダ記念日』と『プーさんの鼻』から
俵さんご自身が
選首してくださいました。
『サラダ記念日』の朗読はこちらから
『プーさんの鼻』の朗読はこちらからどうぞ。
コメント
ききましたよー。
わー。
クエンティン氏の声と短歌の、リズムやトーンが、
とても気持ちよく調和していて、
言葉以上にさらに伝わってくるものがありました。
「生まれて万歳」は私も大好きな短歌なのですよー。
こうして耳と(普段私が使っているのとは異なる)言葉で楽しめるのは、
とっても刺激的で幸せな体験です。
教えてくださってありがとうございました。嬉しいです。
ワタナベさん、オーディオ版・俵さんの短歌、さっそくに聴いてくださってありがとう! イギリスでの詩の朗読会には何度か出かけているわたしですが、詩人たちの朗読を聴く度に、そのリズムや声の調子に感動するので、同じような感覚をインターネットを通じてでも感じてもらえたようで、うれしいです。
俵さんの選んでくださった作品はどれも素敵ですよね。わたしはまた、本のほうもあらためて読み直しています。
こちらこそ、ですよー。 mamiさんに連れていっていただいた詩の朗読会、とくに「バベル」の詩を聴いたときのことを、今ふと思い出しました。
語学力がなくて残念ながら意味は理解できなかったけれど、あの、言葉のひとつひとつ、音のつぶつぶがリズミカルに作用しあいながら積み上がり、目に見えない美しい建築物ができあがっていくような感覚。あのときのわくわくした感覚を思い出しましたよ。
紙の上に並んだ文字の配列ももちろん美しいけれど、声に出されたことばというのは、文字とはまた異なる存在感ですね。息をふきこむとはまさにこういうことなのだなと、今回の朗読を耳にして、あらためて感じています。
日本の短歌や俳句も、日本語を知らない人が聴いたら、そんなふうに何かが空間に立ち上がってくるような感じなのでしょうか。
ワタナベさん、コメントありがとうございます。
「理解する」ということも大切なのだと思うし、「理解できる」ことに憧れもするけれど、「感じる」ことができれば、それも素敵なのではないかと、わたしは思っています(まあ、語学力がおいつかない言い訳、、ととれなくもないですが 笑)。
日本でも、ずっと昔、道浦母都子さんや俵万智さんの朗読をライブで聞いたときなど、「理解」というよりは、なんだか、体がジンと熱く「感じた」ものでした。
イギリスの詩の朗読会で「意味がわからなくて残念」と嘆くわたしに、ある詩人は「わかろうとしなくていい。詩人たちが読む声のトーン、リズムを感じればいいんだよ」とアドバイスしてくれました。
それ以来、「理解できなく」ても、「感じる」ように、体全体で詩を聞くようにしています。
ところで、ワタナベさんの言うように、日本語を知らない人にとって日本の短歌や俳句が(日本語で聞いたとして)どんな風に聞こえるのかは興味がありますね。多分、人それぞれに受け止めかたは違うのでしょうが…。
こんにちは。私は今スリランカにいて、こちらの友人が俳句や短歌が好きだといっていたので、俵万智さんの短歌を探していたところ、このサイトにたどり着きました。そうしたら、私の友人のクエンティンが短歌を詠んでいるではないですか。素敵な偶然をありがとうございました。彼にどうぞよろしくお伝えください。
Takakoさん、はじめまして。
コメントありがとうございます。
スリランカのご友人というのは、スリランカ人の方なのでしょうか? 現地の言葉で俳句や短歌を読まれるのですか? それとも日本語? または英語ででしょうか?
ところで…クエンティンとお友だちなのですね。
最近、彼にあまり会う機会がありませんが(残念)、彼の日本語力はすばらしいですよね。
短歌を翻訳するだなんて、ほんとうに、日本語、英語の能力に加え、文才、詩的な言葉のセンスがなければできないことなので、ほんとうに素晴らしいと思います。